アボカド日記

都内に住む20代の女が思ってることをつぶやく(語る)ブログです。

分かった、私は「面白い」がある人に、憧れる人

先日、「面白い」を原動力に生きている人が好きというタイトルで記事を書いたのですが、また「面白い」エネルギーに関する文章を見つけてしまったのでそのことについて書きます。

 

今回も週間はてなブログのまとめ記事がきっかけです。

blog.hatenablog.com

もともと私は「ライフヒストリー」とか「オーラルヒストリー」というものを面白いなぁと思って色々読んでいて、いわゆる「半生」を聞くの大好きなんですね。

それで、今回こちらのまとめ記事経由で紹介されている3本の記事を大変面白く読ませていただきました。その中で特に、LWさんの記事(半生の記事と併せて、その後コメントへの回答をまとめた「半生を反省する」記事もめちゃくちゃ面白かったので併せて引用させていただいています。言葉のキレがすごい)とパスコンパスさんの記事を読んでいて色々思うことがあったので、書きたいと思います。

「やりたい」と思うことがない 

LWさんは小さい頃からめちゃくちゃ頭がよく、「小二で全国模試1位をとった」方なのですが、東大に入ってからある問題にぶち当たります。進学したのは理科1類と工学系の学部なのですが、そこでの研究にあまりにも興味が持てない。

進振りの段階になっても特にやりたいことがなかったので、適当に一番無難そうな工学部で底点が高めで丸そうな学科に進学することにして、それが計数工学科でした。(中略)

ただ研究能力が要求され始める学部後期ともなると、興味のない分野を無理してやっていくのにも流石に限界が来始めます。計数での成績は良くも悪くもないくらいで、単位を落とすことこそ滅多にありませんでしたが、卒論は書けずに留年したし大学院入試には落ちたしで良い思い出がありません。大学院の面接は周りは皆スーツで来ていたのに僕一人だけ私服で、口頭試問も全部わかりませんとか言ってました。どうでもよすぎて点数開示請求をした記憶すらありません。

けど、後で書かれている「半生を反省」の方でおっしゃっていますが、興味があることが何もなかったわけではないんですよね。

理系の中でも特に工学って極めて素朴な意味で「世の中を良くしたい」というマインドで動くので、人格が終わっている人はあまり乗り切れないところがあります(とはいえ工学研究者が皆そういうマインドを持っているというわけでもなく、単にテクニカルに面白く感じることがたまたま世間の需要と一致している人の方が多数派な気もしますが)。僕は「そもそも世の中を良くするって何? 良いって何?」「理系的な合理性以外にも世の中を動かしているものっていくらでもあるよね」とか思う方で、そういう疑問を回収してくれる文系学問に適性があったというのは完全に真実です。

LWさんにとっては、人文系の学問が適性があり、「面白い」ことだったわけです。半生に対して「酔生夢死」な人生を送っているとのコメントがあり、それを引用しつつこうもおっしゃっていて、

素養としては理系なんて全然向いてなかったのに、向いてない分野でも東大くらいなら入れてしまう程度にはスペックがありすぎたせいで自分が理系人間だと勘違いしてしまったことが、何がしたいのかわからない酔生夢死な半生を歩んでしまった最大の敗因だと思っています。

人生って本当に難しい……。

スペック高すぎて進路狭まる問題

あまりにスペック高すぎて(あと「男は理系」とか「頭良ければ医学部」とかのアレもあって)、いざ進路の最果て、「どう生きるか」という段になって「本当にやりたいことができない」人って、結構いるんじゃないかと思います。

LWさんのように、頭が良くてお家が裕福だったがゆえに「東大」を目指す特定の構造の中で育ち、ある意味選択肢が非常に限られているというか、「スペック高すぎて逆に進路狭まる」問題ってあるんだろうなと思います。なんでも選べるはずなのに、実は本人は選べない、というか。

LWさんみたいなレベルではないですが、首都圏育ちそこそこ優等生の私の周りでも、同じようなことがよく起きていました。たとえば、「大学まで行ったのに高卒でも就職可能な進路にはつけないでしょ」とか、「看護師・薬剤師の学校行ったら、それ以外の道はいけないでしょ」とか、「大学院まで行ったのにその研究領域を生かさない進路に進むのはちょっと」とか。世間的に「良き」とされている進路に進んでいる以上、そこから離れるにはそれなりの理由とか意志とか情熱とかが必要です(と思っているのは優等生な本人だけだったりもするが)。「恵まれている」からと言って、幸せと思えない人も実は多いんじゃないでしょうか。

興味がないなりに、働き始めたらそれはそれで面白さがあったから続ける、という人もいます。でも、これまで色々な人の話を聞いてきた感じだと、30歳くらいで「やっぱりこういうことしたい」とそのレールから外れる選択をする人も一定数いますよね。やはり思っていることと、やらなければならないことが違うと、ストレスが溜まるものです。

LWさんはその後、自分の能力や興味を活かせるお仕事について、今は楽しくやられているとのこと。よかった。

「勉強ができる子」に起きる、価値基準の転換

この辺りも、面白いなぁと思いました。

基礎能力だけで成功者っぽい雰囲気を出せるのってせいぜい二十歳前半くらいまでで、それ以降は学業成績がイマイチでも強いモチベーションを持って起業したりガンガン動く人の方がいわゆる社会的成功者になります。社会の評価基準って何ができるかより何をしたかですから、それはほとんどトートロジカルな事実です。

先日私は「 "面白い"を原動力にして良いのだと気づいた」という話を書きました。そもそも、そこまでそのことに気づかないのが、「勉強ができる子」なんだと思います。

私自身も、LWさんと程度は違えど「勉強がある程度できる」子供で、大学受験に向けて塾やら全国模試やらに参加し、そういった競争の中で「自分には価値がある」というアイデンティティを育んでいたところがありました。周りの大人も「あなたは勉強ができるから安心よね」って感じでしたし、自分自身そう思っていたんでしょうね。

けれど、大学に入ってみると、価値基準が転換します。それまで、能力を測られて良い成績残せば価値があるとされてきたのに、大学入ったら「やりたい」と思う気持ちがないと何もできない世界がくるんです。それはその後の人生も同様で、なんならその「勉強でいい成績残せば評価される価値観」が非常に限られた世界だったわけなんですけど。

研究するにしても何するにしても、自分の中に「やりたい」と思うことがないと面白くない。勉強ができてそれで価値があると思われてきた子供は、大学に入ってから「あれれ?」となってしまうのだと思います。「あれれ?」となってから、LWさんのように付き合い方を身につけていく人もいるだろうし、一方で結構深刻に病んでしまう人も多いんじゃないかなぁ。

めちゃくちゃ眩しかった、「やりたいこと」がある人

一方、パスコンパスさんの半生は「やりたい」「面白い」だらけです。小さい頃からものづくりが好きで、大学に入ったらロボット研究会でロボットを作り、社会人になったら「趣味が爆発」して社内のロボコンを主催したり、3Dプリンターを買ったり。すごく楽しそう。

ものづくりってめちゃくちゃ楽しいと思うんですよね。ほんとに。

(中略)

特に趣味でやる分には心の持ち方一つで無敵です。仕事や研究では「それ稼げるの?」「それ新規性あるの?」と常に成果を求められます。一方趣味であれば「俺が楽しいと思って好きでやってるんだから誰が文句言おうが関係ない」のです。なかなか精神的にそんなテンションになれないことももちろんありますが、本来常にそのスタンスで良いと思っています。人の趣味にケチをつける人に付き合う必要はないのです。

「やりたい」と思う気持ちがある人の場合、大学や社会人で現れる「やりたいことやりなよ」な価値基準下で、水を得た魚という感じで思い切り泳ぎ始めますよね。「やりたいことがよく分からない」人には、こういう人が本当に眩しく見えます。

「 "面白い"のエネルギーってすごいな」と思います。「世の中を動かしているのはこのエネルギーなのか」と圧倒されます。

思えば、先日の記事で書いた文化人類学者の言葉との出会いも、私にとっては価値基準の転換、というか勉強ができることの価値の比重の低下、の中でアイデンティティを模索していた一場面だったのだな、と思います。

私は「面白い」がある人に、憧れる人

ここまで書いてきて、思えば私は「面白い」が豊富な人に、憧れていたんだな、と気づきました。私自身はどちらかといえば何かに夢中になるとか、やりたいことがはっきりしているというタイプではなくて、けどだからこそ「面白い」エネルギーに敏感で、自分自身もそうありたいと願ったのかもしれません。

おそらく大学で「面白い」エネルギーに気づくまでは、特に興味がなくても勉強やらなんやらできていた気がするのですが、一度その力に気づいてしまうと、なんだか味を占めるというか、中毒になるというか。あの「面白い」を原動力に何かをする楽しさを忘れたまま、生きていていのか?と思うようになってしまいました。う〜ん。厄介な大人だな……。

なんにせよ、ここ数日はてなブログを通じて、色々と思い出したり考えたりするきっかけを頂けて、とてもありがたいです。ブログ、面白い。続けていきたいです。