アボカド日記

都内に住む20代の女が思ってることをつぶやく(語る)ブログです。

「あの店いく?あれ、エドシーラン」

お久しぶりです。

勢いでブログを初め、数記事書いてほったらかし、気づいたら前回のブログ書いてから345日も経ってました!ほぼ一年じゃん!あっという間すぎ!

私の体は春になると何かお喋りしたくなるよう、バイオリズム的に刻まれてるのでしょうか。だとしたら私の中のタイマー思ってる以上に正確。侮れません。

最近また、何を書きたいかのかさえまとまっていないけど、とにかく何か、思ってることを書き出したりまとめたり、それをはてなの小川に放流して、誰かの頭に間違って流れつかせたりしたい!私の話、聞いてほしい!という思いが高まってきています(迷惑な話だ)

ので、適当にまた始めようと思います。

思えば一年前の私は人生の中でも結構しんどい時期でした。それに比べると今過ごしている日々は思っていた以上に穏やかで楽しくて、「あれ?なんか幸せだなぁ」と思うことが多いのです。あの頃と変わったことも変わらないこともあるのだけど、確実に私は一年を歩いてきて新しい春を迎えているわけで、そうやってどんどんすぎていく季節を、日々を、少しでも形にしておきたい、ブログに落とし込んで保存しておきたい、そんな気持ちがあります。

「だったら日記でいいじゃない」と言われればその通りなのだけど、そこはやっぱり、なんか違うのです。日記をあえて、思いがけない場所に届くこの小川に放流するのが楽しいのです(ですよね?)。

今、面白いと思ってること。感じたこと。考えたこと。書き留めていきたい。またどうぞよろしくお願いします(とか言って、春の終わりともにまた飽きる可能性もありあり)。

 

例えばほら、今聞こえてきた同居人の言い間違いとか(正解はティムホーワン!)

いよいよ(もう)出発!

1ヶ月後に海外旅行に行く!」と言って、出発はもう、明日である。あっという間。時間が経つのって本当に早い。

行き先は、スペイン🇪🇸。最大の目的は、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路を歩くことで以前「興味がある」と書いたあの道。毎日20~30kmくらい歩いて、スペイン北西部の街、サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す)、1ヶ月のフルコースではないけれど、道の一部を2週間ほど歩く。その前後にバルセロナとロンドン(友人を訪ねるため)をくっつけて、約3週間で帰国する。

 

私は、この旅に何を期待しているのか(ちょっと大それた言い方ですが)

最初のきっかけは、「面白いの最高地点更新したい」だった。恐れ知らずに未知に飛び込み、知らなかった世界を知る。学生時代の旅での経験は、そういう未来に開けていくような、明るさ、ワクワク感があった気がして、それをもう一度味わいたいなと思い、計画を立て始めた。

けれどそのうち、「なんか違う」気がしてきた。「あの頃の面白さとは全く別にして、今の私で面白さ(だけじゃないかもだけど)を感じればいいじゃん」。そう思うようになってきた。

仕事を辞めてしばらく経ち、改めて自分を見つめる時間がたくさんあり、その中でだんだん、私はずっと、私以外の何かになろうとしてきたことに気づいてきたのだ。「私は私」なんて、よくある言葉なのだけれど、本当に理解するのって結構難しい。私に関して言えば、最近になってやっと私らしさを理解したり、受け入れたり、そういうことができるようになった。

その上であの頃の旅を振り返ると、「ちょっと無理してたな」と思うのだ。思い切って無茶な行動をして、そのおかげでたくさんのものを得たけれど、実はあれも、「自分を変えたい」気持ちがどこかにあっての行動だったのかもしれない。今はそう思う。

私はもう、あの「面白さ」は、いらないな。ただ、いつもと異なる風景を見て、人と関わって、今の私が何を感じるのか。あるがままに感じれば、それで充分。

 

と、あれやこれやこねくり回していますが、結局今一番の気持ちは「海外旅行楽しみ〜〜!!!!」である。まずは無事、荷物も失わず、最初の目的地に辿り着くこと。気を引き締めていかなければ。

 

安全に、無事に、旅を終えられますように🙏
あわよくば美しいもの、面白い人にたくさん出会えますように🙏
行って参ります!

あんたは頑張ったよ

あぁ、今日はちょっと、落ち込みそうになることがあった。

シェアメイトと、LINEでちょっとした口論になってしまった。ありますよね、なんだかテキストで論破合戦みたいになってしまうこと。あれ。

「あ、これはヒートアップしちゃダメなやつだ」と思い途中で返信をやめたものの、頭からなかなかその件が抜けず、悶々としてしまう。相手があってのことであり、私が1人で起こしたトラブルではないのだけれど、なんだか落ち着かない。

 

アサーティブ(assertive)という言葉を思い出す。直訳すると「自己主張すること」。コミュニケーションのコツの一つとして使われる際は、自他を尊重した自己主張をすること、というような意味。詳しくはこういったサイトでも紹介しているので、読んでほしい。

www.assertive.org

アサーティブであるということは、「あなたもOK、私もOK」であろうと努力すること。「私はOK、あなたはNG」はアグレッシブ、「私はNG、あなたはOK」ではノンアサーティブ、どちらでもなく、「あなたもOK、私もOK」がアサーティブなコミュニケーションだ。

1年くらい前に知った概念だが、なかなかアサーティブであるのは難しい。私は、ついノンアサーティブ(あなたはOK、私はNG)でありがちだと思う。口論するのがめんどくさくなってしまって、「いいよ、私は気にしないから」となってしまう。

自己主張の少ない、同じような人ばかりであれば特に問題ないかもしれない。けれど人が暮らしていれば、自分と異なる、自己主張が強いタイプに必ず会うもの。そういったタイプに会った時、自分の気持ちを犠牲にせず、「あなた」と同じくらい「自分」を尊重し続けるのは私には難しいのだ。

けど自分を押し殺すのはやっぱり、心に良くない。押し殺された心は、後で私自身に「なんでお前は我慢したんだ」と不満をぶつけたり。良いことなんか、ひとつもない。

 

だから今日は、意見が異なってぶつかった場面で、勇気を出してアサーティブであろうとしたのだ。けど、うまくいかなかった。まぁ、1回で叶う願いじゃなかったとは思う。けど、なんだか思った以上に、あの一件だけで食らってしまったかもしれない。あぁ、なんか、苦しいなぁ(涙が出てきちゃった😂)

きっと口論しかけた相手は、平気でいる。私だけ、重荷を背負ってしまっている気がする。早くこの状況を脱したい。

今日、あんたは頑張ったよ。アサーティブであろうと頑張って自己主張したし、ヒートアップする前に切り上げたし、相手の方がアグレッシブ(あなたはNG、私はOK)タイプで、問題があったと思う。あんたは、悪くない。大丈夫だよ。

 

ちょっと気持ちが落ち着いてきた。書いてみてやっぱり、私は落ち込む必要ない、と思った。さっさと忘れて、楽しいと思うことをしよう。新しい空気を肺に入れて。大きく深呼吸。お疲れ様、私。早く元気になりなよ(自分との会話垂れ流しですみません)

この世を自尊心無しで生きていくなんて、ただのアホかもしれない

自尊心が強い人って、「人に己を嫌わせない力」があるよね、という話をルームメイトとする。

 

ルームメイトにはある男友人がいるのだが、その友人について「なんか話面白くないんだよね」とか「口ばっかりっていうか、言葉が浮ついているっていうか」とか「生理的にも、ちょっとあんまり……」とか言いつつ、なんだかんだと定期的に付き合いがある。

話を聞いていると、その人は確かに話が面白いかと言われれば面白くないし、やっていることが魅力的かと言われれば「うーん?」という感じ。ただ、おそらく本人はそんな自分を、1ミリたりとも卑下したり不安に思ったりしていないんだろうな、という気配がした。

おそらく同じような状況で、その人が少しでも卑屈だったり、ビクビクしていたりしたら、彼女や周囲の人はあっという間にその人を見下したり、付き合いをやめたりしているんだと思う。残酷だけど、そういうものだと思う。人間って。

ルームメイトに「その人、すっごい自尊心高いんだね」と言ったら、「そう!!よくわかったね。自信あるんだよね。“自分なんか”とか、全く思ってない」とのこと。やはり。

彼女曰く、彼は自分への愛、信頼感が揺るぎなく、己に対する不安感があることが全くないとのこと。そして「あの人のこと、嫌っている人っていないと思うんだよね、不思議と」。しかも、「率直に話しても凹まないから、思ったこと言いやすくて、楽」だという。

 

おんなじ能力・立場だったとしても、自分のことを大切に思っている人か、自分のことを「ダメだ」「価値がない」と思っている人とでは、周囲の扱い方も変わってくるのだ。

前者の場合、多少「あれ?」と思うことがあったとしても、「いやでもきっと、この人はきっとすごい人なのだ」と思わせる力がある。不思議と。

反対に後者だと、「この人のことを、見下してもいいんだ」「粗雑に扱ってもいいんだ」「嫌ってもいいんだ」と簡単に思わせてしまう。自分をダメだと思って生活しているのって、「私のこと、見下していいですよ?」というシグナルを送り続けいているようなものなのだと思う。

自分を大切に思う心には、周囲がその人を蔑ろにさせない力があるのだ。

 

「自分なんかダメだ」と思うことは、そもそも本人の心にとっても良いことがない。

自尊心が下がっている時って、同じ状況であっても受け取り方が事実以上にネガティブになる。悪意がない言葉であっても、勝手に食らって勝手に傷つくし、悪意ある言葉をかけられたりなんかすると、思い切り食らってあり得ないくらい傷つく。そこまでいくと、ただのめんどくさい人であり、私はそういうモードの自分が本当に嫌いだ(そうやってまた自分を嫌うという悪循環である。アホか?アホなのか?)。

自分を大切に思っている場合、同じ悪意ある言葉でも、相手の悪意と事実を分けて冷静に受け取れるし、もっといくと、悪意があることに気がつかないくらいの人もいたりする「エレガント人生」さんのコントに出てくるお嬢様キャラはみんな自尊心爆高でおすすめ。あのメンタルを一ミリでも己に取り入れたい)

 

この「受け取り方の違い」には気づいていたけれど、「人からの扱い」自体も、事実として変わるものなのだと、彼女との会話を通して改めて実感した。

 

この世知辛い世の中、自尊心無しで丸裸(どころか敏感で繊細な赤ちゃんのお肌か?くらい無防備状態)で歩いていくなんて、あり得ない所業なんだと思う。赤ちゃんでなくても、カンカン照りの直射日光の下、日焼け止めなしで歩き回ってたらアホでしょ。そんな人いたら、「日焼け止め塗んなさい!」って怒るよ、お母さんは。

私たちは「自分なんかダメだ」と、思ってはいけない。「私は最高」「あんたはいつも頑張ってる」「ありがとうね」と言い聞かせて、誰がなんと言おうと私だけは、私を大好きでいるべきなんだ。

 

と、思うのですがね…………。

これが、難しい。頭ではここまで書いたことを分かっているし、昔よりはずっと良くなったと思う。けれど今でも私は、「あ、今日はいい感じ」という時と、「あ〜今日はなんかだめだ」という日があて、心はいつも揺れ動いている。

今日改めて、自分を貶めるのは、本当に意味がないと再認識したので、これを機に改めて誓おう。あんただけは、あんただけは私の味方でいなければならない。いつだって、何があっても。よろしくね!(己への暗示です)

もうちょっと、流れに身を任せても良いのかも

今日も、日記というより徒然メモ。

近所の、早咲きの桜が満開に近い。もう春は本当にすぐそこ。

私の大好きな「ゆとたわ」でもChatGPTネタをやっていたので聞き、大笑いする(めちゃくちゃ面白いので皆さんにも聞いてほしい)

ゆとりっ娘たちのたわごと: 第69回「ChatGPTごっこ」 on Apple Podcasts

2人でChatGPTごっこをしている最中、AIになりきったかりんさんがナチュラルに「そういえば」と言って話を進めるのだが、「そういえば」って、絶対AIが使わなそうな言葉だな、と思う。

新卒1社目から、キャリアとその時々の選択の背景などをまとめてみる。だんだん冷静に解釈できるようになってきたなと思う。しんどい時ってリアルタイムに己の状態を解釈できない。物事を解釈できるまでには時間がかかる。

主に次の仕事の方向性について悩んでいる。いつまでも悩むわけにはいかない。けどあと少し、もうちょっと寝かさないと、結論は出なそう、と思う。

転職繋がりで、『驚きの介護民俗学』で有名な六車由美さんを思い出し(六車さんは民俗学の研究者から介護業界に転職し、出会ったお年寄りとの会話から「介護民俗学」を提唱した方)ググるとまさに転職時の思いについて語られている記事を発見した。

www.e-aidem.com

コロナで外とのつながりがなくなりしんどい期間もあったが、周りに相談して乗り越えられたという部分が印象的。何かに困ったり、辛かったりするときに、ありのままに相談して、話を聞いてもらえるのって、それができる職場って良いなと思う。私にはそれが必要だったし、私も誰かにとってそんな場になりたい、と思う。

 

同じメディア内はてな編集部が作っているメディアだった)で、月山ももさんの記事を読む。無理するのをやめた、という話。

www.e-aidem.com

無理しているかどうかを自分で気付く基準として、「10年後20年後の自分と地続きか。どこかで断絶していると思うなら、それは今、無理をしているということ」という部分、なるほどと思った。無理しているかどうか気付きにくい人間として、参考にすべし。

 

はてなブログ編集部運営のオウンドメディア面白いな〜と思い、同じくはてなブログ編集部が手掛けるスーモタウンを見ていて、偶然風音さんのこちらの記事を読む。

suumo.jp

「私には何もない」と思う気持ち、わかる。「決めることでしか、選択肢を狭めて始めることでしか、何も始まらない」という言葉、良い。

 

風に乗るように、軽やかに生きる風音さん。私はもうちょっと、頭じゃなくて、感覚、嗅覚に従ってみても良いのかもしれないな、と思う。この感じ、好きだな、と思うもの、場所、こと。直感を信じて、私を信じて、流れに乗ってみてもいいんじゃない? やりたいことをやっていけば、きっと私は私らしい場所に行ける。あ、これだ、と思うものがあるのかも。あるのかな? 分からないけれど。

考えても仕方ない気もする。私はいつだって、「やってみて」きた(その結果、失敗もしてるんだけれども)。だって、やってみなきゃ分からないもの。道には角があって、角の先に何があるかは、その角まで行かなきゃ分からない。歩いているうちに天気が変わったり、思わぬ出会いがあったり、色々ある。着実にキャリアを積んでいかなきゃいけないなんて、思いすぎず。

お金はあったほうがよいけれど。好きだと思った漫画一気に買えたり、行きたい!と思った場所に行けたり、仕事やめたいと思った時にしばらく辞められるくらいには。けどいくら稼いでも、ボロボロの心と体を癒すために、捨てるように使うんじゃ意味がない。お金は必要。けど一旦、もうちょっとシンプルに、私がどうしたいのかを感じてみても、良いかも。

シェアメイトとして、新しく入居するかもしれない人が見学に来る。ご案内は、慣れたもの。いつの間にこんなに時間が経ったのか。新しい人が持ってくる、新しい風。あの人、入ってくれると良いな、と思う。

今日は特に、徒然度がすごい。私のブログサステナビリティを高められてはいるけれど、こんなんで良いのか? 

いや、良いのだ。私は書いて考える人。お付き合いくださっている方、本当にいつも、ありがとうございます(気が向いた時に、生ぬるく見守ってくださいませ)。

旅行の準備したり、ChatGPTで遊んだり

日記というより徒然メモ。

旅行準備。だいぶ旅行先の地理に明るくなってきた。アクセスの良い場所を選んでホテルを予約。

私の場合、ホテル選びで大事なのは、圧倒的に立地と値段。特に都市の観光では、各所へのアクセスが良いターミナル駅から徒歩数分内で選ぶ。値段だけ見て郊外のホテルなんかをとってしまうと、毎日出かけるのにいちいち時間がかかって勿体無い。

今回私が選んだホステルは、地下鉄がいくつも乗り入れ、空港からのアクセスも良い街の中心。完璧だ(ワクワク)。

ChatGPTを体験してみる。

映画と漫画の主人公やストーリーが違うことはキャッチできなかったよう。間違ってはないけど、「面白い」ポイントが一般化されすぎてて面白くないな。

 

これはなかなか良い回答なのでは。無難な回答。

 

日本人が納得できそうな情報を集めてくれた。納得はできなかった。

 

そもそもChat GPTの仕組みとは? 中学生レベルにしてもらいました。ふむふむ。

 

小学生レベルってどない? と思って実験。微妙に簡単にしてくれている。

 

AIエンジニア(?)向けにはこんな感じ。いろんなレベルに合わせてすぐに書き分けてくれるのは便利。

 

あっていないところもあるのだけれど、このレベルで情報を一瞬で集めて編集して伝えてくれるのはとっても便利。そもそもググって出てくる記事の多くは何かを売るための文章であることを思うと、何も売ろうとしてこないChatGPTで聞く方が快適な体験ができているかも。が、きっとあっという間に広告として使えるサービスになるんだろうな。

もともと、読むことで「面白いな〜と思う体験」を得ている文章は「何が書いてあるか」より「誰が書いているか」の方が大事。だから人間が描く文章がなくなることは無いと思うけど、情報を伝えるためのライティングの仕事は大きく変わるんだろうな〜。あとAI生成の文章の真偽を確かめる、っていう仕事が必要になりそう(もうなってるかも)

仕事とは結局「翻訳」なのでは?という話をシェアメイトとしたことを思い出す。これは長くなるので後日また書くことにする。

旅行後の就職について考え、私ができる仕事があるのだろうか?と不安になる。次の瞬間、「いや、絶対ある。あると思って落ち着いて行動することが大事」と自分で自分を励ます。

面白そうだなと思う業界や職種。体調や精神的な安定のために、なんでもOKとは言えない労働時間。自分のこれまでの経験とできると思えること。そして自立して生きていくために「これくらいは欲しい」と思う給与。いろんな意味で、これならやっていけると思える仕事があるのか。

あるよ。大丈夫。不安になったり強気になったり、安定しないけれど、そんな自分でも付き合っていかなければ。

映画『THE FIRST SLAM DUNK』、面白かった〜〜

映画『THE FIRST SLAM DUNK』を見た。超面白かった……!

今日はちょっと、昔あった嫌なこと思い出してウジウジしてたのだけれど、見た後は改めてその件について思い返すことでこの「面白かった〜〜」を減じるのが勿体無くなった。あれはまた今度ウジウジし直すことにして(し直すんかい)、今日は面白いと思ったことをとにかく書き留めようと思う。

 

スラムダンクについて、「諦めたらそこで試合終了ですよ……?」しか知らない全くの素人でも、映画『THE FIRST SLAM DUNK』は超楽しめた。音楽カッコよすぎ。音楽と映像合いすぎ。ていうかかっこいいシーン多すぎて最初から最後まで見どころありすぎ。最近のアニメーション技術凄すぎ。もう一度見たくなるの分かる。細かいことは全然知らないけれど、とにかく面白かった(それ以外ないのか?)

事前に読んだどなたかのブログで、「作者はバスケの面白さとか、伝えたいメッセージとかを、あっちでは漫画で、こっちでは映画で表現しており、だからこれは漫画の実写化ではないし、あっちもこっちも最高なんだ!」みたいなことを書いており、「へぇ〜」と思っていたのだが、その意味がめちゃくちゃ分かった(どのブログだったのか見つからない……。悔しい)。オープニングで紙の上の線から登場人物たちがアニメーションになって歩き出すシーンがあるのだが、あのワクワク感はとても漫画っぽかった。「あぁこの人たちは漫画の中から出てきたんだ」と思った。けれど映像自体はおそらく全然漫画をなぞってなくて、アニメーションとしてベストが尽くされていた(のだと思う)

モーションキャプチャで実際の選手の動きを起こして3Dを制作しているとかで、試合中の動きのキレやスピード感や敏捷性はめちゃくちゃリアル。けれど一瞬を引き伸ばしてスローにしたり、数十秒を早送りで一瞬で見せたり、イラストっぽい作画とリアルな作画を交錯させたり、アニメだからこそできるありとあらゆるテクニックが盛り込まれてて、映像的な面白さやかっこよさは現実世界じゃあり得ないレベル。

紙から生まれた物語が、限りなくリアルに近づきつつ、アニメである面白さを最大限活かして躍動してる、そんな感じだった。

あと音も、素晴らしかった。一緒に見にいった友人が鑑賞3回目で「絶対Dolby Atmosがお勧め!」と言うので、200円多く払って特殊な音響のある映画館で見たきたのだが、これは確かに音も一緒に楽しむ映画だった。ボールの弾む音がもう「私今、同じ体育館にいます?」くらいお腹にくる。音を耳で聞くんではなく、空気の振動を体で感じる感じ。オープニング曲の重低音と映像もめちゃくちゃあってたし、あるキャラクターのセリフと共に、メインテーマが流れる瞬間も忘れられない(「そんなタマじゃねーよな?」わぁーー!)

音が全くないシーンも、印象的だった。あの数秒間、多分劇場にいる人全員息止めていたと思う。「だるまさんが転んだ」か?くらい、ピタッと停止。あれだけの人が一瞬に集中するって、すごい(すごいと面白い以外の感想ないんか?)

 

見ながら「あぁ、これ作るのめっちゃ大変だったんだろうなぁ……」と思った。

漫画の原作者である井上雄彦さんがそのまま監督をされたとのこと。あぁどうりで、そうでなかったらこんなに面白いもの作れないよな、と思う。思い描いているものがあって、伝えたいスピリットがあって、あと「面白いもの作りたい!」っていうエネルギーがないと、無理でしょう。

映画って、あらゆるコンテンツの中でも、特に多くの人が関わり、お金と時間をかけて作るものだと思う。いくら面白い物語を作れる人でも、映画は1人では絶対作れなくて、音だったり映像だったり、いろんなプロの力を寄せ集めないとできない。でも、関わる人が多くなるほど、同じイメージを共有するのって難しいもの。実現したい像や伝えたいメッセージをあらゆる方法で握り合わないと、なかなか良いものは作れない。きっと多くの映画は、いろんな関係者の思惑が入るうちに、全体としてのメッセージが薄まったり、よくわからなくなったりしてしまっているんだろうなぁと思う。

だからこんなふうに、「おもしろ!」と思う映画が完成して、ちゃんと届くって、すごいことだと思う。私はよく分からないけれど、きっと、この2時間の映像を作るにあたって、いろんな人がいろんなところでベストを尽くしてるのだろう。私は、こうして面白いものを目の当たりにできて、超ありがたい。ほんと、超ありがたいなぁ!

 

人が想像/創造する力って、すごい。

あぁ、この社会には色々な人がいるし、色々なことがあるけれど、私はこうやって人間が創造したものを面白い!と思いながら過ごしていきたいし、面白い!と思う人たちと一緒にいたいなぁ。面白い!と思うものは、それぞれ別で全然結構なんだけれども。

あぁ、面白かった。私は今日、映画『THE FIRST SLAM DUNK』をすごく楽しみました!ありがとうございました!(突然の感謝)